2019年09月24日(火) 私のお気に入り「風の抄」、がんばれ!
館山の洲崎灯台のそばに「風の抄」という写真のごとくの、そう大きくはない旅館がある。20室はないな。特に派手な設備もないが、部屋からの眺めは結構よい。
館山湾・別名鏡ヶ浦から北には大房岬から鋸山。徒歩5分の灯台からは富士山や伊豆半島。南には伊豆大島がこんなに近いんだ、というくらい大きく見える。
その昔、館山道路が開通する前は市原からは一般道路をくねくねと館山まで大変だったが、高速道路が開通してからはずいぶんと快適に行けるようになった。
土曜の診療終了後、午後2時頃に医院を出ても、4時過ぎには到着する。黄色の車は我が愛車「7110」、内藤号である。
各部屋の名前にも趣があり、地元で使われている季節風の名前を付けている。「ならい」、「さがにし」、「鰆東風」などで、ならいは北風、さがにしは忘れたが、たぶん強い西風の事だったかな。さわらごちは読んで字のごとくだ。
風呂上がりの夕食に出される鮮魚の舟盛りが、見た目も美しく大変おいしい。目の前が漁港だし当然かもしれないが、これを食するのが主目的といっても過言ではない。
朝にはトンビの餌付けをするので、7時45分にはトンビもわかっているようで、部屋の窓近くでも旋回し放り上げる餌を待っている。
写真はこの春に撮影したものだ。ウグイスもあちこちで鳴いていたのでその声を頼りに探したが、なかなか捕まらない。ようやく撮れた写真がこれだ。
残念ながら、電線にしがみついていた一羽。声に似合わず、地味で味気ない一枚になってしまった。
今回の台風、もう少し西にずれていたら鎌ケ谷も大きな被害を被っていたように思う。
東武野田線(ニュースではアーバンパークラインとは呼ばないが、この方が通じる。)は9時になっても動かず、医院の窓から見える駅構内は人だかりができていた。
スタッフも通常時刻には集まれず、30分遅れで診療が始まったが、そのくらいの被害で済んだ。今でも南房総は被害が深刻で、この旅館もどうなったか気になっていたが、どうやら営業を再開したらしい。まずはよかった。もう少しして、ほとぼりが冷めたらまた予約を取って土曜の午後、愛車を飛ばして行くつもりだ。
画像は良いね。絵画と違って出来不出来が分からないから。先月の音楽会、とにかく最後の5小節は間違いなく弾けたはずだが、そこにたどり着くまでがぼろぼろだった。あの精神状態でよく間違わずに、止らずに弾けたものだと自分を褒めなくてはなるまい。
今週の診療は今日だけで、あとは休診だ。昨日も連休で明日からも休みが続きどうなるかなと思って診療していたが、特段混むこともなく、夏休みなので午前中が少し混んで、午後は最後だけ少しバタバタして終わった。
毎年のことだが、夏は病気が治る。なぜか?!耳鼻科の病気は気道に関係していることが多く、高温多湿はむさ苦しいものの、気道の粘膜にとってはかえって都合がよいのだと思う。
工業高等専門学校卒業という畑違いの経歴であったが、さすがは私の後輩のことだけはあって覚えは早く、動き素早く、最近では10年選手のような態度で働いていたが、イギリスへ“遊”学したいとのことで退職する事になった。開業以来、スタッフ募集などと言うのは50回くらいやっているので、そんなことにももう慣れっこである。出来れば3年くらいはいてほしいものだが、思うようにしなさい、と言うことにしている。
早いもので、今年も半年が終わった。途中で平成から令和になったので、書類の年月日が間違ってばかりで困ったものだ。この際、やはり西暦が良いと感じる事しきりである。
7月14日、市内のきらりホールで第13回鎌ケ谷市医師会定期音楽会が開催される。自慢じゃあないが、私は第1回から参加している。
定期音楽会といえばちょっと楽しそうな響きもあるが、私にとっては定期試験の様な気分だ。「不可」「絶望」「落第」、大学を卒業して何10年にもなるのにそんな言葉が脳裏をよぎる。
先週末から新宿の京王プラザホテルで“気管食道科専門医大会”があり、参加してきた。気管食道科というあまり世間では聞き慣れない標榜科だが、一応私はその専門医ということにもなっている。これもハッキリ言って履歴書といくらだったか忘れたが、お金を振り込んでなっただけの専門医であるが・・・。
11月17日を休診にして、専門医講習会に出席してきた。2日間にわたり最初から最後までびっしりと会場で講演を聞いていたのは過去に記憶がないくらいだ。おかげで、沢山の受講証明書を手にすることが出来、来年3月の専門医更新には十分の書類がそろった、と思われるが!?
17日の夜は、この講習会を教えてくれた友人と博多料理を楽しんだ。ほろ酔い気分で中州を歩いていたら若い女性の似顔絵師に誘われた。5分でこんな絵を描いてくれた。大したもんだ。なにしろ私は中2の時、美術は「2」で通した実力だ。3学期の担任のコメント欄には美術も頑張りましょう、なんて書かれた記憶が残っている。

